『インテンション・エコノミー』(ドク・サールズ、栗原 潔/翔泳社)
- 2013/06/09 18:00
- 齋藤公二
Linux Journal誌のシニアエディターである著者が、CRM(Customer Relationship Management)へのカウンターパートとして取り組むVRM(Vender relationship management)という考え方とそのプロジェクトについてまとめた本です。書名は「アテンション・エコノミー」から来ています。アテンション・エコノミーが顧客の「関心」を中心に経済活動を表現しようとするコンセプトであるのに対し、「インテンション・エコノミー」は顧客の「意思」を中心に経済活動を読み解き、具体的に実践していこうというプロジェクトです。
と書いてしまうと、なにやら難しく聞こえるかもしれませんが、コンセプトや活動自体はそれほど突飛なものではありません。企業が提供する製品やサービスは、顧客の「意思」に基づいて提供されるべきであり、それを実現するためのツールやサービスを具体的に整備していこうという主張です。誤解を恐れずに言えば、プロプライエタリな製品に対するOSSプロジェクトのようなものです。
実際、プロローグにはこうあります。
VRMによってどのようなことができるようになるのでしょうか。本書の第一章で説明されている「仮想シナリオ」(P10〜)を要約して紹介すると、以下のようになります。
- 顧客は、製品やサービスを購入する際に、企業に対して自分に関するデータの利用について条件を提示できる。たとえば、どのデータを収集できるか、サービスを中止したあとにデータをどう取扱えばよいか、行動追跡する場合どの方法ならよいかなど。
- 条件に同意し製品やサービスを利用しはじめると、顧客と企業は、特定のリレーションで結ばれる。そのリレーションの状況は「パーソナルデータストア(PDS)」でいつでも確認できる
- パーソナルデータストアの管理などは、企業と利害関係がなく、顧客の代理人として機能するフォースパーティ(第四者)が担う。
- 製品やサービスは、他の製品やサービスでも利用できる「オープンAPI」を提供しなければならず、オープンAPIはルールエンジン「KRL(Kinetic Rules Language)」で記述、実行できる。
- 顧客は、要求事項をパーソナルRFP(Request for proposal)として作成し、自分の「意思」を製品やサービス提供者に伝える。パーソナルRFPはたとえば「家族旅行でサンディエゴにいるが、2時間後に双子用のベビーカーを買いたい」といったこと。パーソナルRFPは、KRLで記述されたルールを起動するイベントであり、企業は、そのRFPに沿った提案を顧客に行なう。
- パーソナルRFPやパーソナルデータストアは、VRMツールで個人が管理できる。VRMツールは、企業のCRMシステムと連携することができ、ポイントなどのロイヤリティプログラムを統合できる。
- 顧客は、製品やサービスに対する対価や支払い金額に対する希望を「イマンシペイ」とよばれるツールで伝えることができる。このツールには、寄付を行う機能とその分配方法について希望を伝える機能「アスクリビネーション」を備える。
- 顧客は、パーソナルデータストア、パーソナルRFP、イマンシペイなどを使った新しい検索システムを利用できる。たとえば、「娘が、サンディエゴ動物園からワラビーが逃げ出して野生化したのは本当かどうか知りたがっている」場合に、イマンシペイを使った有料での質問をその場でつぶやき、回答を得るといったことができる。
こうしてみると、かなり野心的な、言い換えると、実現するまでにそうとうの根気と時間が必要になりそうなプロジェクトであることがわかります。ブロジェクトVRM(ProjectVRM)が開始されたのは2006年で、その背後には「自由な顧客は囲い込まれた顧客よりも価値が高い」「自由な市場には自由な顧客が必要である」というテーマがあったそうです。また、オープンAPI、KRL、パーソナルRFP、イマンシペイなどのツールは、第三部「解放された顧客」以降で具体的に紹介されていますが、著者自身「今日のVRMツールのほとんどは、開発の初期段階にあるか採用が始まったばかりの段階にある。(中略)キャズムはまだ越えていない」と認めています。
「囲い込まれた顧客を解放しよう」というのですから道のりが険しいのは当然かもしれません。もっとも、著者が「壊れたシステム」と形容するような従来のCRMシステムが持つ課題は、ここにきて明らかになってきたように思います。たとえば、ビッグデータをCRMに活用しようという場合です。
個人的な話ですが「小売業におけるビッグデータの活用」などをテーマに取材をしていると、ベンダーやサービス提供者からしばしば次のような話を聞くことができます。
「顧客の購買履歴や属性情報を分析することで、顧客がほしい情報をほしいタイミングでレコメンドできるようになる。これは買い手、売り手がWin-Winの関係を築くことができる仕組みだ」
こうしたコメントを聞くと「確かにそれはそうだ」と思うのですが、どこか腑に落ちないところもありました。なぜ腑に落ちないのかよく分からなかったのですが、本書を読んではっきりしました。ビッグデータを使ってCRMを精緻化できたとしても、顧客は、自分の「意思」でそのCRMシステムをコントロールできないからなのです。現状では「提供した私に関するデータを削除してほしい」という要望すらスムーズに実行されないことがほとんどです。また、そうした仕組みをシステムとして整備しようという企業も少ないように思います。
さらに、本書の主張が興味深いのは、顧客を解放したその先に「企業の解放」を見据えている点です。カウンターパートとしてCRMの代わりにVRMを主張するだけでなく、CRMとVRMはいずれ融合するという視点から、企業と顧客のリレーションのあり方を提案しています。以下は第24章「VRM+CRM」(P311〜)からの引用です。
実際に、第四章からは、VRMとCRMの融合例として、日用雑貨のトレーダー・ジョーズ、ネット靴店ザッポスのケースを取り上げながら、解放された企業の姿を探っていきます。また、最終章に近づくにつれ、提言の範囲は、金融、サプライチェーン、ヘルスケア、法律、政府などへと及んでいきます。
たとえばヘルスケア分野では、患者のカルテなどの医療情報(EMR)を病院間で共有し、長期に渡って活用する仕組み(EHR)の構築に取り組んでいますが、これらは病院にとっては患者CRMであり、患者にとっては自分の情報を管理できるVRMということになります。
どうも、こうした視点の広さと長さは、著者の持ち味であるようです。著者は、CRMブームが始まった1999年にインターネットマーケティングの将来を描いた文書「クルートレイン宣言」の作者の1人です。訳者あとがきにはこうあります。
本書全体を通して、著者の主張は明快です。ただ、構成としては、筋道立てて体系化された論文集というより、雑誌への寄稿をまとめたエッセイ集といった趣きです。肩肘張って頭から読み下すのではなく、あちこちつまみ食いしながら、SFを読むように10年以上先のCRMの姿に想像を巡らす、といった程度がちょうどいいのではないかと思います。表現や比喩の使い方もおもしろいです。たとえば解放というのは、マスター-スレーブ(奴隷)関係だったり、リンカーンの奴隷解放だったりします。
なお、著者がLinux Journal誌に書いた「インテンションエコノミー」に関する最初の記事は、こちらです。VRMツールの最新情報は、プロジェクトVRMのブログやWikiで確認することができます(いずれも英語)。訳者である栗原潔氏のブログには本書の解説があります。
書誌情報
著者:ドク・サールズ(Doc Searls)
訳者:栗原 潔
判型:四六判 ハードカバー
束:28mm(実測)
重量:484g(実測)
ページ数:432ページ
発売日:2013年3月14日
価格:2200円+税
ISBN: 978-4-7981-3026-2
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