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中国美味紀行その42(上海編13)「租界時代の味を今に伝える上海の洋食──海派西餐」

 日本の洋食はフランス料理やイギリス料理が下地となって日本で独自に発展したが、中国の洋食である「海派西餐」はロシア料理がその下地となっている。上海の歴史とは切っても切れない関係にある“租界”時代に生まれた上海の洋食は、どのようにして独自の発展を遂げていったのだろうか──。

亡命ロシア人たちが広めた料理

 1840年から2年間にわたって清とイギリスが戦ったアヘン戦争の後、イギリスの勝利により両国の間で南京条約が結ばれた。それにより1845年から約100年もの間、中国には中国政府の管理が及ばない、諸外国が管理する“租界”という地域がいくつかの都市に設置されることになった。そのなかでも上海には各国が共同で管理する共同租界と、フランスが管理するフランス租界があり、もっとも栄えた地域となった。

 そこに、ロシア革命を逃れてやってきた亡命ロシア人たちが数多くフランス租界に流れ込んできた。彼らのなかにはロシア貴族や音楽家など教育的・文化的水準が高い人が多く、フランス租界の地でヨーロッパの文化を花開かせていった。

上海のかつての租界だったエリアには、ロシア正教の教会の建物が2か所残っている

 そのヨーロッパ文化の一つが西洋料理で、亡命ロシア人たちはフランス租界のお洒落なエリアで西洋料理のレストランを開業。当時のロシア料理はフランス料理の影響を大きく受けており、租界に住む外国人の間で人気となっていた。

 第二次世界大戦が終わり、租界もなくなると、外国人たちは上海から去っていき、西洋料理レストランもなくなっていったが、その味は上海人たちの間で受け継がれていった。それが海派西餐である。これらの洋食のいくつかは家庭料理として今でも作られているが、今もいくつか残る、租界時代から営業している洋食レストランでも食べることができる。

ランチもコース料理に

 能書きが長くなってしまったが、今回は、1897年創業の洋食レストラン「徳大西菜社」で食べた料理をご紹介しよう。まずはそのレストランの建物と店内がこちら。

「徳大西菜社」の外観。本店はすでになく、ここは支店。建物は新しい

クラシックな雰囲気の店内。客層も中年以上の年配の人が多く、若い人にはあまりウケていないようだ

 そして、この店で食べたランチセットがこちら。上海の洋食を代表する料理ばかりである。

「羅宋湯」(ルォソンタン)。意味は「ロシアスープ」で、いわゆるボルシチである。本場のボルシチは赤いビーツを使うが、上海風はトマトソースを使う

「徳大色拉」(徳大サラダ)。日本のポテトサラダとほとんど同じ。ロシア料理には「オリヴィエ・サラダ」というポテトサラダがある

メインの「黒椒牛排意式烩蝦配米飯」。黒胡椒ソースがけステーキとイタリア風あんかけエビのライス付き。ステーキに立てられているトルコの国旗は、焼き加減の違う他の人のステーキとの区別に使われるようだ

パンは一人1個。ステーキにライスが付いているが、パンも出てくる

 これで88元。今の日本円にして約1500円である。さすがに高い。これを食べた当時、昼食などは食堂の12元ていど(200円)のぶっかけ飯しか食べていなかった筆者にとって、7回分の昼食代にあたる。つまり、普段の昼食の7倍くらいの満足度がないと合わない計算になるが、多く見積もっても3倍くらいか。上海の洋食は、まあ話のタネに1回食べれば十分、といったところだろう。

佐久間賢三
中国在住9年5か月を経たのち、尻尾を巻いて日本に逃げ帰る。稼いだ金は稼いだ場所で使い果たすという家訓を忠実に守ったため(?)、ほぼ無一文で帰国。食い扶持を稼ぐためにあくせく働き、飲みに行く暇も金もない日々を送っている。日本の料理が世界で一番美味いと思っているが、中華の味も懐かしく感じる今日この頃。